久しぶりの万年筆
久しぶりに、万年筆を使ってみました。
一時期凝っていたことがあり。
といっても高級な万年筆は買えないので、安価なものを揃えたりしていました。
万年筆の、インクの色に濃淡ができるところが、なんとも言えず好きなのです。
特にLAMYは濃淡が綺麗に出る気がして、一番気に入っています。
LAMYのEF(極細)↓
インクも、色んなメーカーから沢山の種類が出ていて、「月夜」「夜桜」「天色」などなど素敵なネーミングのものが多く、つい収集欲をそそられてしまう。
好きでよく使うのはこれ↓(字がきたなくてすみませんσ(^_^;)
物書きの才能は皆無ですが、昔から「紙に文字を書く」行為がとても好きです。
本のなかの気に入った文章を、無心でノートに書き写したりしていると、楽しくて時間を忘れて没頭してしまう。(「無心で」というところが肝心。)
イライラしているときや、思考が止まらないときにやると、気持ちが鎮まるし、かなり癒やされます。
アートセラピーならぬ書き写しセラピー(笑)。
久しぶりに万年筆でやってみたら、また凝りそうです。
映画『万引き家族』を観て
映画『万引き家族』を観てきました。
人にとって本当に大切なものとは?そんなことを考えさせられる映画でした。
以下、思ったことをダラダラと。
表面上、どんなに常識的に見える家族でも、お互いがお互いをまともに見ていない、そういう家族は沢山あると思います。
お互いの、淋しさにも、傷みにも、優しさにさえ気づかない。眼差しが欠如した家族。血は繋がっていても、形ばかりの絆。
一方で、この映画の家族は、心に深い傷を負った者たちが居場所を求め、寄り添うように生きる、血の繋がりのない家族。彼らの暮らしは「犯罪」にも関わるいくつもの問題、過ちを抱えていて、いつか破綻するしかなかったわけなのですが、ただ、そんな彼らの毎日には、眼差しがありました。
相手を見つめる眼差し。ただその存在を受け入れる眼差し。そこにいていいのだと思わせてくれる眼差し。
それが人間にとって、どれほど必要で、どれほど大切なものか。
やがて世間から「犯罪」の部分を断罪されるに至り、そこにあったささやかな幸せまでもが、「常識人」たちの「常識的」な言葉によって、容赦なく残酷に切り刻まれていきます。子どもたちの純粋な優しい思い出さえ、暴力的なまでの「正しさ」「決めつけ」によって曲げられていく。
彼らが心に負った傷や、抱え込んだ哀しみ、そして優しさについては、見向きもされず。
この映画が、彼ら側の視点で描かれているせいもあるかもしれませんが、世間の「常識的」な言葉が、あまりに薄っぺらく響き。
知らないうちに刷り込まれた「常識」で目を覆い、教え込まされた「幸福」について少しも疑わない、そういう感受性の欠如に、思わず身震いしてしまう。短絡的な「決めつけ」によって一様に否定するだけの、その残酷さに、傲慢さに。
自分たちを「常識人」と位置づける人たちを中心に創りあげられた世界の片隅で、たとえそのレールからは外れても、不器用に懸命に真実を生きようとしている人たちが存在している。
「血の繋がり」は人と人の絆において必ずしも重要ではないと思っています。そこだけが居場所ではない。その事実で救われる人が大勢いる。
子ども達に何より必要なのは、ここにいていいんだと感じさせてくれる眼差しではないかと思います。
再び居場所を失ってしまったりんちゃんの未来は…。一方でこの家族の在り方に疑問を感じて、違う道を歩む決心をした祥太くんは。
二人に、再び温かな優しい眼差しが注がれますようにと、祈らずにはいられない。
以上、取り留めもなくまとまらない感想を失礼しました。
モネ展へ行ってきました
「モネ それからの100年」展へ行ってきました。
モネの影響を受けた現代画家の作品が主なので、モネ自身の作品はあまり多くはなかったですが、それでも、よかったです。
色遣いの素晴らしさ。
モネが創りだす微妙なニュアンスの色彩が好きです。明る過ぎず、甘すぎず、優しすぎず。
特に「睡蓮」を描いた作品の深遠な雰囲気がとても好き。どこか憂いのある、言葉では表現し難い色彩。観ていると、心の奥の奥のほうから癒されるような感じがします。今回は数点のみでしたが、あの静寂の世界に触れられる幸せ。
モネは、なぜキャンバス一杯に、池の水面のみを写したりしたのだろう。なぜ何枚も描き続けたのだろう。
水面の鏡に映る空と、その奥に存在する深くて暗い世界に、何を見ていたのだろうか。
地球の中心というのではなく、広大な宇宙でもない、もっと違う未知の世界へと繋がっているようで、恐ろしいような、懐かしいような。
例えば、いずれ還る場所。例えば、母親の子宮の中。それとも、そのもっと先に存在する世界…?色々、想像を膨らませてしまいます。
グッズ売り場に、三色色違いののトートバッグがあり、商品の横に、生地にプリントされた文章の和訳が添えられていました。
その文章が印象的だったので↓
(展覧会公式サイトより引用)
<トートバッグに書かれたクロード・モネの言葉>
Tandis que vous cherchez philosophiquement le monde en soi, j’exerce simplement mon effort sur un maximum d’apparences, en étroites corrélations avec des réalités inconnues.
【和訳】あなた方は世界を哲学的に理解しようとするが、私はひたすらその外観の全てを捉えることに努力を傾注する。なぜなら、それは知られざる真実と結びついているからだ。
モネの眼には固定観念というものがないのか、作品に出来る限り近づいてみると驚かされます。おそらく本当に眼に映ったそのままの「色」だけがそこに描かれていて、それなのに、距離を置いて見ると、不思議とそこに見覚えのあるものが浮かび上がる。まるで魔法のようです。
この人の眼の透明度はどうやらすごい。
「思考」に依らず、真実の世界をまさにありのまま捉える。そんなことが、普通の人間にできるものなのかと。「自我」というものが削ぎ落とされた、まるで「神の眼」のような…?
世界を哲学的に捉えることと、目に映るありのままを見ること。
おそらくどちらもこの世界には必要で、どちらも同じ真実へと繋がっているのではないか。漠然とそんな風に思いました。
モネの絵を、自分が今よりももっと透明度の高い眼で見ることができたなら、そこに真実が写しとられているのを捉えることができるのでしょうか。
頼もしい相棒
ここのところ、何かに追い立てられるような、落ち着かない気分になることが、多くなった気がします。
平凡な日常の、ひとコマひとコマを、大事に丁寧に生きられたらそれでいい。頭ではそんな風に思っているのに、なぜか気持ちがついてこない。
↓ちょうどこんなような?
兄さんは書物を読んでも 、理窟を考えても 、飯を食っても 、散歩をしても 、二六時中何をしても 、そこに安住する事ができないのだそうです 。何をしても 、こんな事をしてはいられないという気分に追いかけられるのだそうです 。 「自分のしている事が 、自分の目的になっていないほど苦しい事はない 」と兄さんは云います 。 「目的でなくっても方便になれば好いじゃないか 」と私が云います 。 「それは結構である 。ある目的があればこそ 、方便が定められるのだから 」と兄さんが答えます 。兄さんの苦しむのは 、兄さんが何をどうしても 、それが目的にならないばかりでなく 、方便にもならないと思うからです 。
(夏目漱石『行人』より。)
自分などは、立派な「目的」なんてなくても毎日を大切にできればそれで充分。なはずなのになあ。
何をしていても、何かが違う気がする。
何をしていても、落ち着かない。
何をしていても、どこかしら虚しいような?
原因不明の焦りばかり先に立って、集中できず。
そんな状態が、いつもではないけれど、不定期に、頻繁にあらわれます。
そういうときは、好きな読書ですらままならない。
困ったもんだ。
そんなときは、我が相棒(犬)とお散歩へ。
脇目も振らず、ひたすら前へ前へと突き進む姿が、いつになく頼もしい…。
迷いのない歩みがうらやましいよ。
今日は、行きたいところへ、ついていきますどこまでも。
本が繋ぐもの
繰り返し読んでしまう、「本」が自分の半生を語る「本」の物語。
特に好きな部分がここ。
初めて告白するのだが、わたしはページをめくられると、興奮して背筋がぞくぞくするのだ。この人は、わたしを読みたいと思うだろうか、それとも、適当にめくって、拾い読みをしておわりなのだろうかと、考えてしまうのだ。
…思わず、積まれている積読本たちに目をやる。
物も言わずに、じっと読まれるのを待っている健気な姿にキュンとなる(;_;)
読もう。
ところどころに登場する、引用文もいいです。
もし木を知らなかったら
森で迷ってしまうだろう。
物語を知らなかったら
人生で迷ってしまうだろう。
シベリアの長老
本は人生の道しるべだ、と思います。
本がなかったら、とっくの昔に迷子になっていて、今頃どうなっていたかわからない。
大げさではなく、本当にそう思います。
そして、その本は全て、「人」の手によって「人」の意志でつくられたもの。
人間関係に疲れて、本の世界に逃げ込んだつもりが、実は本を介して数えきれないほどの人達と接していたという…。
つまり私は、大勢の見知らぬ人たちに、救われていたということ。
そんなことを思い、あらためて感謝の想いを強くする。
私がこの本を買った当時に付いていた帯の、この言葉がとても好きです↓
親愛なる読者へ。
わたしはあなたのためにここにいる。
願うことに罪はない 〜理想の社会
なんだか深いい記事に、色々考えさせられたので、ひとり言をダラダラと。
極から極にふれてしまうことのあやうさ
意味を取り違えているかもしれないのですが、この言葉から思ったこと。
私たちは普段、あれがダメならこれ、これがダメならそれ、と何か「正しそうな答え」ばかりを追い求めて、極端なものを渡り歩いている状態のかもしれないな。
そんなものが膨れ上がって、混沌としすぎていて、そもそも「正しい答え」なんて存在するのか?と、そんなふうに思ってしまうのは、「ひとつだけの答え」を探してばかりいるからなのかもしれない。
全てがバランスしている「真ん中」が、この混沌を終わらせる最大のヒントなのでしょうか??
長きにわたって繰り返されてきた横線(ひとびとが地上でわらわらする)と縦線(上からの命に従う)以外の第3のやり方
というものが本当に存在し、もしもそれを見つけ出すことができるのだとしたら、その先に、本当に新しい世界が開けるのかもしれない。
私はまだその小説を読んでいないのですが、確かになんだかワクワクしてきた(笑)。
下記のブログ主さんの言葉が、何か深いヒントをくれているような気がしました。
願うことに罪はないのなら、
・良き指導者が
・道義心を持つ民の心に従い
・皆が仲良く穏やかに暮らしていくための社会を作る
という理想の実現を私は願います。
真の意味で「皆が主役」で、しかも「友好的」かつ、「人道」が叶っている状態が水瓶座らしい世界だと思いますね。
『真の意味で「皆が主役」で、しかも「友好的」かつ、「人道」が叶っている状態』
私などは、ぼんやりとしたイメージでしか捉えられていないような、ふわ〜っとしたものを、この方はいつもはっきりと明確に言葉にされていて、尊敬してしまう。
自分のなかの「ぼんやりイメージ」がぽんっと目の前に言葉として現れるので、瞬間、つられて自分の視界まで一気に開けて明るくなったような錯覚(笑)と心地よさと嬉しさをいただいています。
(私のことなので、色々取り違えて解釈していたり、分かってないことも多々あると思うけど。)
余談ですが、普段の生活で身近な人たちとの間では、わざと真面目な話を避けている感じがあり(それこそ空気を読んで)、現代の風潮かなあ。
なので、ネット上で色々な方の思いに触れられるのは、勉強になるし、嬉しい貴重な体験です。何かを考えるきっかけをいただける感じ。
ネット上には、信じられないくらいの「ネガティブな本音」も飛び交っているけど、こうして違う意味の「本音」に触れることもできる。
ただ、世情に疎くて頭も悪い私には、とてもついていけない難しい話も多いので、辛うじて自分の頭でも共感できたところだけσ(^^;)
もとい。
つまり難しい理屈ではなく、ただ、仲良く平和に暮らせたらいいのになと思うだけです。
もう本当に誰かが虐待されることに耐えられないし、これ以上の殺戮は見たくないというのが本音です。
本当に、そう思う。
崇拝とは違う、お互いを尊重し合うこと。
依存とは違う、お互いに助け合うこと。
皆が仲良く平和に暮らすために、本当の意味の「自立した在り方」を、子供のうちから、ひとりひとりに教え導くことのできるような社会の仕組みがあったらいいのになあ〜、と夢を見る。
はあ、性に合わない難しいこと考え過ぎて、頭がフリーズ(・・;)したので、この辺で。