* 空と月 *

本好きのたわごと。

私が見たい世界

ある小説の影響を受けて、考えていました。

世界の片隅の片隅で、小さい脳みそで、ひっそりと考えていました。

私が見たい「真実の世界」ってなんだろう。

 

私が見たい世界。

それは、人と人が、精神的に傷つけ合わない世界です。

ずっとそうだったのに、忘れていた。

 

皆が自立していて、自分の花を精一杯咲かせながら、隣の花を愛でつつ、深いところでひとつにつながっているような、そんな世界。

 

「その花の色、ちょっとケバくない?」とか、

「葉っぱの形が変じゃね?」とか、

「何、真面目にやる気出していっぱい咲いてんのよ」とか、

「アピールしちゃって、そんなにミツバチにモテたいのか」とか、

「君は、太陽と植物に関する認識がたりない。その咲き方は理論上間違っている。」とか…

(ふざけているわけではありません(^ ^;))

欠点や欠陥を指摘しあって、「正しさ」を押し付けあって、腹のうちを探り合って、無意味に罵り合いをし合うような、足の引っ張り合いの世界はもう、うんざり。

 

現代の平和なこの国でも、人間同士は精神的な醜い争いを続けていて、だからこんなにも恵まれた世の中なのに、こんなにも生きづらく。

 

最近、すごく落ち込むことがあり、絶望感と脱力感が半端なく襲ってきたときに、ふと思い出したことがありました。

それは、子供の頃から抱いていた、自分の心の底の底からの願いのようなものでした。

もうずっと昔々から切に求めているもの。

唯一求めて止まないもの。

 

幼い頃から、ひどく批判や否定の飛び交う世界に身を置くことが多く、私は子供心に、ずっとそれを止めたかった。変えたかった。終わらせたかった。切実に。

その感情を思い出し、久々に泣けてきてしまった。

 

だけど、変えるってどうやって?

そんなこと、おそらく皆、心のどこかでは思っているんだ。

どうしたらいいのかわからず、いつのまにかそんなことはすっかり諦めて、自分をごまかしながら生きるようになり。

 

そもそも、この世では、平和は実現不可能なようにつくられているのではないか?決して「真実」には届かないように、設定されているのではないか?

そんなふうに考えてしまう。

だけど、戦争ばかりだった歴史を眺めてみれば、まだまだ地球上の色んな所で争いの種は耐えないものの、それでもずいぶんと変わったと思われ。(まだ今後どうなるかわからないけど)

それを思うと、精神的な平和も、実現不可能ではない…?果たしてどうなのでしょうか。

 

たとえどんなに学歴や地位が高くても、人をバカにしたり、見下したり、むやみに傷つけたり、追い詰めたり、そういうことをしている人を見ていると、もううんざりしてしまう。

この世界に毒を撒き散らしておいて、何を偉そうに。

(そういう自分だって偉そうなことは全然言えないけど。)

 

一方で、人の気持ちを穏やかに明るくできる人、笑わせたり和ませたり、幸せな気持ちにできる人たちの存在があり、学歴があろうがなかろうが、頭が良かろうが悪かろうが、どんな仕事についていようが、本当に心から尊敬してしまう。そういう人のパワーってきっと計り知れない。

(おそらく、「善人」と「悪人」がいるのではなく、バランスの違いこそあれ、皆どちらも合わせ持っている。)

 

自分も、できることなら、いつも人の気持ちを和ませられるような存在でいたい。

だけどそれがなかなかに難しい。

自分自身が悩みのループにはまっている状態で、人を和ませるなんて。

強くなりたい。

何か、突破口を見つけたい。

 

世界の片隅の片隅でそんなことを思ったところで、ほとんど無意味なのかもしれない。

それでも、ちっちゃい私が私なりに「ここ」で出来ることを、捨ててはいけないんだ。

 

未熟者のとりとめもない話を失礼しました。

ノートカバーの神様が舞い降りた☆

ノートを一冊買いました。

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「B6変形」と書いてありましたが、普通のB6ノートよりはかなり小さく、文庫(A6)サイズよりはすこし大きい。

それが、私にとっては、まさにジャストサイズで、ページ数、紙の質感、色合い、方眼の線の薄さ、開き具合、どれをとっても完璧でした。

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ずっと理想のノートを探して色々試したりしていたので、やっと見つかった〜。

ところが、

外出時に携帯するため、カバーをかけたいのですが、なにせこのサイズ。

相当数のノートカバー、ブックカバーを取り扱っている東急ハンズでも見つからず。

オーダーメイドはお高いし、手作りするしかないかなーと諦めて、その後本屋に立ち寄り、何気なく本屋の脇にあった雑貨屋さんに入りました。

ブックカバーなども置いてあり、店員さんがご親切に色々試してくれたのですが、やはり合うものはなく。

不意に展示棚の一番下、床すれすれにひっそりと横たわっていたブラウンの革のカバーが目に入ったので、あれは?と聞いてみると、店員さんは「ああ、これ。このサイズ、お求めになるお客さんいないんですよー。」となぜかあまり乗り気じゃない風でノートを入れてみてくれる。

すると…

 

あら。

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ピッタリ。

 

思わず店員さんとふたり、同時に顔を見合わて、「入ったぁ!」

傍から見たら変なふたりです(^^;)

結局、ちょっと(かなり)お値段が張りましたが、風合いが好みだったのと、本皮で15年は使えるという店員さんの言葉を信じ、思い切って購入。

おそらく、これを逃したらこんな変わったサイズのカバーなんてもう見つからないかと。

お会計の時も、店員さんが感慨深げに「いやー、神が舞い降りました〜」と(笑)。

ホントです。感謝。

 

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↑この工房の方に、なにゆえこの大きさのブックカバーを作ったのかを聞いてみたい☆

そしてお礼を言いたい。

 

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読書ノート、日記、メモ用に。

大事に使おう。

 

小さ過ぎる私の、小さ過ぎる一歩

最近、『我傍に立つ』や、著者さんのブログを読んだりしていて、自分にも何かできることってないかなあ、なんて真面目に考えるようになりました。

そんなこと、私みたいな者が考えるのもおこがましい気もするのですが。

だいそれたことは自分には無理だけど、何か、とても小さくてもいいから、何か。

せっかく出逢えた本から得た感動も、「感動しました」で終わってしまってはいけない。

ささやかでいいから、自分の生活に活かして、変われなければ、意味がなくなってしまう。

「言葉の力」をいただいた身として。

 

私のような、なんの才能も持ち合わせていない平凡な一般人にも、ここに生きている以上、何かちょっとくらいはできることがあるような、ないような。

ずっと、世の中をどうこうとか、そういうことは、もっと頭のいい人、優れた人に任せておけばいいんだ、と当たり前のように思い込んでいて、だけど、そんな大袈裟に考えず、もっと本当に些細なことからでいいのではないか、と。

 

例えば…

 

笑顔を絶やさず、

足るを知りよく感謝をする、

自分の体を大切に、

周りの人の話をよく聞いて、

目の前の人を先入観で決めつけず、ありのままを尊重する…

 

…。

 

小学生の道徳の授業みたいでスミマセン(笑)。

だけど、そんな本当にささやかなことが、このギスギスした世の中ではとても難しいことのような気がして。

綺麗事かもしれないけれど、現実には、そんな小さなことで、場の空気がちょっと変わったり、誰かの気持ちがちょっと和んだりして、それが知らず知らず、だんだん波紋のように外へ広がっていったりするのですよね。

否定や批判をし合うばかりの世界はもうたくさん。

 

ささやかゆえに軽視しがちなこと、忘れてしまいがちなことを、ちゃんと意識して毎日を過ごす…とりあえず、そんなことから始めようか (スケールが小さ過ぎてスミマセン。あの壮大な小説に申し訳なさすぎる。)

…それでも、身近な人にこんなことを話したら、「真面目か!」と煙たがられそうだσ(^_^;)

なのでここに書いています☆

 

返信に感謝 & 言葉の力

『我傍に立つ』の著者さんへ、先日のブログ記事へのお礼メールをお送りしたら、再び、ブログにてもったいないくらいの嬉しいお言葉をいただき、感謝の気持ちで涙がでそうでした。

ksnovel-labo.com

 

なんて素敵なことがあるものだろう〜。・゚・(>_<)・゚・。

本を読んで、直接ご本人に感想や手紙(メール)を読んでいただくことなんて、今まで一度もなかったので、感動しきり。

 

再び感謝の気持ちをお伝えしたい気持ちになりましたが、多くのメールを受け取っておられそうな方なので、ご負担をおかけしそうな気がしてやめました。(小心者)

 

代わりにここに記事にしてみたわけですが、著者さんがこの地味すぎる個人ブログを発見する可能性は、万にひとつもなさそうなので、ほぼ自己満足で書いていますm(_ _)m

 

 

また、同じ記事のなか、別の方への返信にとても印象深い言葉がありました。

かつてプラトンが書いた文章に触れたとき、大昔の人の情熱を直接に感じ取る体験をしました。以来、書き残すことの意義を知りました。
途中で誤読する人たちがいくら多くても、未来に読む人へは直接に届く可能性がある。文章とは奇跡を叶えるツールです。

 

そうか、たとえ本人がもうこの世にいなくても、言葉はそのままの形で、何千年、何万年の時を生きていく。

そして未来のどこかで、その言葉に込めた思いが誰かの心に直接届き、その人を動かす。

まさに奇跡だなあ。

他人を介してではなく、「直接届く」というのがなにより素晴らしいですね。

 

それでふと思い出したのですが…。

少し前になりますが、映画『空海』を観たのをきっかけに、空海についての本を数冊読んでみたことがあります。 (映画の原作を先に読めって?)

仏教や密教の知識など全然ない無教養な私には、何とも難解。

そんな中、最も印象に残ったのが、後世に他人が書いた解説よりも、やはり空海本人の書いた文章でした。

(『空海 「性霊集」抄』

主に空海の書いた手紙などを弟子が集めてまとめたもの)

といっても漢文は読めないので、口語訳されたものではありますが、山の暮らしで空や鳥や動物たちを愛でていたり、弟子の死をものすごく悲しんだりしている、人間らしい空海の言葉にとても惹かれました。

解説本からでは伝わってこなかった、柔らかで優し気な、そして繊細な人となり。なんともいえない心地よさに包まれ、心が澄んでくるような…。

ああ、これが空海という人なのかと、初めて「本人」に触れたような感動がありました。

(それよりちゃんと内容のほうを理解しようぜと突っ込まれそうですが)

空海の言葉には、言葉そのものに魔法がかけられているかのような、人を心地よくさせる何かが宿っている気がしました。

言霊、言魂、という言葉があるように、そこには、何よりその人自身の魂のようなものが宿るのだろうと思います。

だからこそ、「本人の言葉」がそのまま残っていくことが大切なのでは、と。

何千年、何万年あとの未来に生きる人が、言葉を通して、その人の魂に触れる奇跡。

夢があってとても素敵です。

文才のある人がうらやましい。

 

先入観にとらわれない目

今朝の新聞のコラム欄に、こんな記事が載っていました。

 

カンヌ国際映画祭で『万引き家族』が最高賞「パルムドール」を受賞したことを受けての、是枝監督についての記事。

 

先入観にとらわれず、人間を知りたいという柔軟な目。それがリアルで味わい深い作品につながっているのだろう。

心弱く、行い悪い人物を決して断罪や非難で描かないのも、先入観を疑う手法と関係があるのかもしれない。

「薄汚れた世界がふと美しく見える瞬間を描きたい」。

人の弱さ。それさえ是枝監督には美しく見える。

世界がその目を評価した。

 

すごく、是枝監督の映画が観たくなりました。

 

人に限らず、この世界の全ては、先入観というものによって全く姿を変えてしまう。

濃いサングラスをかけていたときには見えなかったものが、透明なメガネに変えたらはっきり見えるようになった、みたいな感じ。

ずっとそこにあったのだけれど、自分からは見えていなかったということですね。

 

人は自分の心の中身を、人やものに投影している。

だから、同じものを見ているようで、おそらくそれぞれが、全く違う世界をを見ているのだと思います。

 

人にレッテルを貼って決めつけてかかることは、なんだかすごく損ですね。もったいない。

私自身、よくやってしまっていることです。

 

できるだけ透明なメガネをかけていたい。

できることなら、メガネなんて外してしまいたい。

そして、ありのままを見たい。

「薄汚れた世界」も、全てをありのままに。

 

すごく、難しいことですけど。すごく。

 

皆がそうできたなら、この世界はどんなに優しい世界になるだろう。

 

決めつけ、判断、レッテル貼り、そういうことをやめるだけでいいのに、人間にはなかなかそれができない。

やはり、人間は不器用な生き物です。

 

「薄汚れた世界がふと美しく見える瞬間」。

この言葉だけでも、ギュッと心をつかまれます。

映画を観たら、そんな瞬間に、自分も立ち会えるでしょうか。

反応を下さったことに感謝

先日投稿したAmazonレビューを、著者さんがブログに載せてくださっていて、とても嬉しかったです。

未熟者の勝手な解釈で色々書いてしまったので、もし著者さんご本人が読んだら不快にならないだろうか、と不安になっていたところだったので、反応を下さったことがとてもありがたく。

私などの拙い文章にも、答えるような形で書いてくださっていて、なんていい方なんだー。

ksnovel-labo.com

 

派生して、思うこと。

何かを言葉で公に発信されているかたって、すごいなー。

作家さん、ブロガーさん、歌手や映画監督、アナウンサーやコメンテーターさん、ほかにもたくさんの「言葉で自分の思いを伝える」という活動をされている方々。

発信すれば、不特定多数の様々な意見や感想を受信することになるわけで。(自らもレビューなど書いておいてなんですが。)

私だったら逃げ出してしまいそうだ。

あ、私の場合、そもそも発信者になれるような器じゃないので、その心配も無用ですがσ(^_^;)

受け取るばかりの私は、あまり具体的に想像したこともなく。

 

この年になっても知らないことばかりだなー、と、つくづく反省。

想像することや本で知ることと、実際に体験して感じることとは、雲泥の差があるだろうと思うので。知らないことのほうが多いんだろうな。

もう人生折り返し地点に差し掛かっているというのに、こんなんでいいのか、私(゚-゚;)

若者の、勇気と誠実と覚悟

昨日は、日大アメフト部選手の会見を見ていて、様々な思いが過りました。

あの状況の中、彼の立場に置かれたとしたら、おそらく想像を絶する恐怖心に襲われるだろうと想像します。

そんな中あの場に立つということに、いったいどれほどの勇気が必要だっただろうかと。

20歳にして、あの場で、あのようにしっかりとした口調で真実を語り、真摯な態度で被害者に謝罪をすることが、普通できるだろうか。

私だったらきっと震えてしまってダメだろうな…。

 

彼があの場に立ち真実を語ったことは、本当に心から尊敬に値することだと思います。

彼を動かしたのは、自らの過ちを悔いる思いと、被害者への心からの謝罪の気持ちだけではなく、もしかしたら、あの場に立つことの恐怖心をも超えるほどの、卑怯な大人たちへの失望と憤りなのでは?

 

前日に、「明日、加害者側の選手の会見があるんだって」と聞いた時には耳を疑いました。

絶対にやめたほうがいいのに、と思ってしまった。でもそれは他人ゆえの考えだと気づかされました。

彼のご両親や周りの大人たちは、彼をあの場へ送り出すまでに、どれほどの葛藤があったのだろうと想像します。

何より、彼の純粋な精神を壊してしまわないよう、本当の意味で彼の未来を守るために最善の道は何かということを考え抜いての決断だとすれば、それも生半可な気持ちではできないことだと思います。